ネパールにワッペン売り上げを届ける

2015年のネパール大地震の4ヶ月後に一度ネパールに義援金を届けました。
ネパール地震の支援の様子は、
右側ののカテゴリー内ネパール大地震お仕事支援をご覧ください。

ネパール地震から2年弱。
帽子工場には海外顧客からの義援金も集まり、112世帯の皆様にいろんな支援が行われております。
A-rueの集めたお金も加えていただき、100%が家をなくしたスタッフのために使われております。
もう1つの支援先がゴルカ郡にあるシバ君の出身地の村です。
2015年の支援報告がこちら
あれからワッペンをネットで売り続け、約1年間で21000ルピーになりました。(二万二千円くらい)
送料も含め、お客様に購入していただた金額全額分です。
ネパール大地震後も海外でも日本でも大きな地震が続き、支援金ワッペンの売り上げは伸びなかったけど、少しでもセメント代の足しにはなるかな?
シバ君が家の再建のために、海外に出稼ぎに出て1年が過ぎました。
私の渡航中に10日間お休みをもらったそうでカトマンズで会うことができました。
一緒に山に行こうと寝袋も持参したのですが彼の休みが短いこともあり、次回村に帰る時にと嫁に預けたのですがシバ君が2日かけて届けに行ったらしい。高齢の父親も村に残っているので会いに行ったそうだ。
村の方はどうなってるのか?というと
ゴルカの村
家を作り始めようとしている家族2軒。
とちあえず基礎の穴掘り1軒。
コンクリート基礎までやった家が1軒です。
家に住めなくなった家族には政府から3000ドルの資金が配られることになり、配布されつつあるらしい。
でもルールがあって、鉄骨入りの家を建てなければ政府から支援金がもらえない。
新しく建てる家には建築基準のルールも決まっていて、
穴掘ってチェック
コンクリート流してチェック
etc,,,,
こんな感じで役人のチェックを受けたら少しづつ分割して払ってもらえるそうです。
でも3000ドルで家が建つことはなく、皆さんお金の調達ができたら材料を買い少しづつ義援金を足して建築していくそうです。
なので足りない人は基礎だけで放置とか、柱までできました、壁は材料を買うお金が用意できたらという流れだそうです。
それと問題なのが物価が高騰していて材料が高くなっていること、
他にも建築ラッシュになり、建築労働者が不足していて村の家を建てる人がいないんだそうです。
給料が良い都会の家の建築現場に働きに行くので、村で家を建てるとしても職人さん待ち。
これは、、、、、何年経ったら仮設住宅から抜け出せるんだろう?
まだ2件しか基礎工事が出来ない理由は職人がいないのが大きな理由だそうです。
お金があれば呼べるけど、都会ほどの高給は出せないので村が後回しになるらしい
若くて海外に行ける子供は出稼ぎに出たそうだ。
現実的に考えても支援の集まらない小さな村では、
基礎までできても柱、壁、屋根なんかつかない、、、、、。
それでも助け合って村の人たちは暮らしているようです。
話を聞いていると暗い感じはしなくて、現実を受け止め今を生きてます。
シバ君も以前より痩せていました。お仕事がハードなんだそうです。
彼と仕事をしていた時、
私が『ネパールで私はよく眠れるの。日本ではこんなに眠れない。睡眠が必要だ』
8〜10時間くらい寝ていたのが今なら理解できる!!!と言ってました。
まあ痩せて健康的になったように感じるし、ハンサムになった。
シバ君家族のアパートに行ってダルバートを食べること2回。
嫁も子供たちも嬉しそうだった。
韓国に出稼ぎに行って箸の使い方を覚えたと見せてくれました。
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韓国では外国人5人の寮に住んでいて、こうやってオカズを作ってみんなで食べているそうです。
好きなものを必要な分だけ皿にとる文化が新鮮で無駄がなくて良い!

ということでこんなランチになりました。
奥さんの作るダルバートは美味しい。
子供たちも嬉しそうだった。父親は海外にいても今はインターネットがある!
毎晩ビデオ通話してるらしい。
だから仕事はキツクでも耐えられるし、慣れてきたそうです。
目標は出稼ぎ5年目に家を建てる!
そして残り4年はネパールに帰国した時に自営したいので貯金するそうです。
最低4年は決められたお仕事だけど、毎年給料も上がり休みももらえる良い会社に選ばれたらしい。
繊維を作る小さな工場らしいが、雇用がしっかりしていて安心した。
これからもお互いにタイミングが合えばネパールで合流しよう!と話し合ってきました。
頑張って家を再建して欲しいです。
以上、昨年1年にワッペンを買ってくださった皆様、
お金の使い道のご報告でした。